1.1.旅の原点と人生の転機(1)

第一章 旅の原点と人生の転機

—26歳、貨物船の甲板で風を知る—

人生が動き出す瞬間は、いつも静かだ。 誰にも告げず、誰にも祝われず、 ただ、風のように始まる。 世界の広さに気づいたとき、 僕は何かを得ようとしたのではない。 何かから離れたかったのかもしれない。 欲望の声が静まる場所を、 風の中に探していた。

大阪南港。 貨物船の影が、海に沈んでいた。 目的地は上海。 理由はない。 ただ、海を渡ってみたかった。 それだけだった。

甲板に立つと、風が吹いていた。 風は語らない。 ただ吹き抜けるだけだ。 その沈黙の中に、 僕は「満たされないことの静けさ」を感じた。 それは、満足よりも深い感覚だった。

「初めてですか?貨物船。」 古びたステッカーの男が笑う。 「僕もそうだったよ。最初はね。」 食堂では、 母の誕生日に帰る青年。 シルクロードを夢見る女性。 誰もが、何かを探していた。 地図には載っていない何かを。

台風が近づいた夜、船は揺れた。 トイレは洪水、甲板は嘔吐。 それでも、僕たちは笑っていた。 「これも旅の一部だな。」 苦しみの中で笑うとき、 人は何かを超えている。 それは快楽ではない。 それは、苦痛の意味を知った者だけが持つ、 奇妙な安らぎだ。

街は騒がしく、 市場は熱気に満ちていた。 だが、僕の心は静かだった。 貨物船の甲板で感じた風が、 まだ胸の奥で吹いていた。 いや、あれは風ではなく、 “線”だったのかもしれない。 過去と未来をつなぐ、一本の見えない線。

それから、僕は旅に出るようになった。 半年は教壇に立ち、 半年はバックパックひとつで世界を歩く。 株も、不動産も、通貨も、 すべては「点と線を繋ぐ」ための手段だった。

点と線を繋ぐ旅は、 何かを手に入れるためではなかった。 むしろ、手放すためだったのかもしれない。 世界の喧騒の中で、 僕は静けさを選んだ。 それが、僕の幸福だった。

世界は広く、想像もしかりだ。 でも、点を繋いだ直線が未来に向かう様は、 我々の想像を遥かに超える。 そしてその線は、 いつも静かに始まる。

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