僕の名前は、トシ。 厳格なサラリーマンの父と、専業主婦の母のもとで育った。 資金もノウハウもなかった、普通の家庭。 お金も、学歴も、何もなかった。 ただ、祖父が絵描きだった。 自由で、創造的で、風のように生きる人だった。 僕は、その背中に、密かに憧れていた。
とりあえず努力した。 メーカーで製品を開発しながら、夜はMBAの勉強をした。 言葉を覚え、国境を越え、投資を始めた。 気づけば、普通の生活では一生困らない資金を得ていた。
人は僕を成功者と呼ぶ。 でも、僕にはよくわからない。 成功とは何か。自由とは何か。 時々、僕は立ち止まってしまう。 この道でよかったのか。 あの選択は、誰かを傷つけなかったか。 もっと違う生き方があったのではないか。
夜のホテルの窓から、遠くの灯りを眺めながら、 僕は何度も問いを繰り返した。 孤独だった。 でも、その孤独が、僕を深くした。 誰かに裏切られたこともある。 でも、その痛みが、僕を柔らかくした。
時々、祖父の絵を思い出す。 風の中に立つ、ひとりの人物。 顔は描かれていない。 ただ、風を感じている背中だけが、そこにある。
僕も、あの絵のように生きたいと思った。 顔ではなく、背中で語るように。 肩書きではなく、問いで残るように。
問いを持った最初の記憶は、小学五年生の頃だった。 家計は豊かではなかったけれど、両親は時々、美術館に連れて行ってくれた。 その日、僕はピカソの《ベレー帽と四つ葉の女》の前に立ち尽くした。
彼女は、こちらを見ていなかった。 ベレー帽をかぶり、胸元には四つ葉のクローバー。 色彩は控えめで、構図は静か。 でも、なぜかその絵から目が離せなかった。
四つ葉は、幸運の象徴だと教えられていた。 でも、彼女の表情には、幸運の気配はなかった。 むしろ、静かな違和感が漂っていた。
なぜ四つ葉なのか。 なぜ彼女はこちらを見ていないのか。 なぜベレー帽なのか。 なぜ、僕はこの絵から離れられないのか。
その日から、僕は問いを持つようになった。 それは、絵の中の沈黙ではなく、 僕自身の中の静かな声だった。
四つ葉は、偶然の中に現れるもの。 でも、それを「身につける」ことは、選択だ。 希望のかたちをしているけれど、 その希望は、違和感の中に芽生える。
僕はその日、初めて「問い」を持った。 それは、答えを求めるものではなく、 生き方を選ぶための、静かな線だった。
そして今も、僕は、点と線をつなげている。 過去と現在、偶然と選択、問いと行動。 そのすべてが、ひとつの絵になる日を望もう。
↓↓ランキングUP用にイイネ・クリックお願いいたします。

にほんブログ村
コメント