3.19 サヌールの朝、別れの贈り物
—余白に宿る記憶—
出発の朝、サヌールの空は淡い灰色に染まっていた。 雨季の終わりを告げるような、静かな曇天。 先生は、村井氏のアトリエの前でスーツケースを閉じながら、深く息を吐いた。
そこへ、アグンが現れた。 手には、小さな包み。 「先生、これを持っていってください。祖父がよく使っていたものです」
包みの中には、古びた木彫りのペンダントが入っていた。 中央には、バリの伝統文様が彫られている。 それは、“トゥリ・ムルティ”——創造・維持・破壊の三位一体を表す模様だった。
「これは、祖父が“沈黙の守り”と呼んでいたものです。 言葉にできないものを、胸に抱いておくための印だと」
先生は、しばらくそのペンダントを見つめていた。 そして、静かに首にかけた。
「ありがとう、アグン。これは、問いを持ち続けるための灯ですね」
アグンは、少し照れたように笑った。 「先生、僕はまだ何も継げていないと思ってました。 でも、先生と話して、沈黙の中にも継承があると知りました」
先生は、アグンの肩に手を置いた。 「継承とは、形ではなく、問いを持ち続けること。 君は、すでにその道を歩いている」
その後、先生は村井氏と短く別れの挨拶を交わし、車に乗り込んだ。 窓の外には、アグンが静かに手を振っていた。 その姿は、まるで風景の一部のように、穏やかだった。
車が走り出すと、先生はノートを開き、最後の一行を書き記した。
「沈黙は、別れを語らない。 だが、別れの中に沈黙があるとき、それは記憶になる」
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