2.2.投資家として(失敗の記憶)

第二章 投資家として

—数字に溺れ、生活を見失った日—

投資家としての道を歩み始めた頃、僕はまだ“数字”に魅了されていた。 利回り、キャッシュフロー、ROI—— それらがすべてを語ると信じていた。 現地に行かずとも、Excelの中で未来を描けると思っていた。

そんな僕が初めて大きな損失を出したのは、ある東南アジアの都市だった。 開発が進むと噂されていたエリアに、 「年利12%保証」「外国人専用ラグジュアリー物件」という触れ込みのコンドミニアムがあった。 現地視察はせず、資料と数字だけで購入を決めた。 当時の僕は、こう言っていた。

「現地に行かなくても、数字が語っている。 これは、勝てる投資だ」

だが、現地の“生活”は、僕の想像とはまるで違っていた。 物件は完成したが、周囲には生活インフラが整っていなかった。 スーパーも病院も学校も遠く、交通の便も悪い。 住民はほとんどおらず、空室率は80%を超えた。 広告にあった“人気急上昇エリア”は、ただの空き地だった。

僕は、初めて“数字に裏切られた”と感じた。 だが、裏切ったのは数字ではなく、僕自身だった。 現地の空気を感じず、生活の匂いを嗅がず、 ただ机上の論理だけで判断した自分の浅さだった。

その失敗から、僕は学んだ。 数字は必要だ。だが、それは“補助線”にすぎない。 本当に見るべきは、現地の人々の暮らしだ。 彼らがどう動き、何を求め、どこに集まるか。 それを肌で感じることが、投資の本質だ。

僕はその後、同じ都市に何度も足を運んだ。 市場を歩き、屋台で飯を食い、地元の人と話した。 そして、生活の流れが変わり始めたエリアを見つけた。 そこには、数字では語れない“温度”があった。

「失敗は、感情ではなく構造の見誤り。 だが、その構造は、生活の中にしか存在しない」

この経験が、僕の哲学の核を形づくった。 直感とは、感情ではない。 それは、数字と現地の情報、そして失敗の記憶が織りなす“確率的確信”だ。

弟子のユウタにも、僕はこの話を何度もした。 彼が数字に傾きかけたとき、僕は言った。

「数字は語る。だが、生活は叫ぶ。 その声を聞けるようになるまで、投資家とは呼べない」

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