—26歳、貨物船の甲板で風を知る—
人生が動き出す瞬間は、いつも静かだ。 誰にも告げず、誰にも祝われず、 ただ、風のように始まる。 世界の広さに気づいたとき、 僕は何かを得ようとしたのではない。 何かから離れたかったのかもしれない。 欲望の声が静まる場所を、 風の中に探していた。
大阪南港。 貨物船の影が、海に沈んでいた。 目的地は上海。 理由はない。 ただ、海を渡ってみたかった。 それだけだった。
甲板に立つと、風が吹いていた。 風は語らない。 ただ吹き抜けるだけだ。 その沈黙の中に、 僕は「満たされないことの静けさ」を感じた。 それは、満足よりも深い感覚だった。
「初めてですか?貨物船。」 古びたステッカーの男が笑う。 「僕もそうだったよ。最初はね。」 食堂では、 母の誕生日に帰る青年。 シルクロードを夢見る女性。 誰もが、何かを探していた。 地図には載っていない何かを。
台風が近づいた夜、船は揺れた。 トイレは洪水、甲板は嘔吐。 それでも、僕たちは笑っていた。 「これも旅の一部だな。」 苦しみの中で笑うとき、 人は何かを超えている。 それは快楽ではない。 それは、苦痛の意味を知った者だけが持つ、 奇妙な安らぎだ。
街は騒がしく、 市場は熱気に満ちていた。 だが、僕の心は静かだった。 貨物船の甲板で感じた風が、 まだ胸の奥で吹いていた。 いや、あれは風ではなく、 “線”だったのかもしれない。 過去と未来をつなぐ、一本の見えない線。
それから、僕は旅に出るようになった。 半年は教壇に立ち、 半年はバックパックひとつで世界を歩く。 株も、不動産も、通貨も、 すべては「点と線を繋ぐ」ための手段だった。
点と線を繋ぐ旅は、 何かを手に入れるためではなかった。 むしろ、手放すためだったのかもしれない。 世界の喧騒の中で、 僕は静けさを選んだ。 それが、僕の幸福だった。
世界は広く、想像もしかりだ。 でも、点を繋いだ直線が未来に向かう様は、 我々の想像を遥かに超える。 そしてその線は、 いつも静かに始まる。
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